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歴史



1975年、東京教育大学附属聾学校(現 筑波大学附属聴覚特別支援学校(筑波大学附属聾学校))の文化祭に集まった卒業生たちがお互いに進学先の大学での学生生活を話し合いました。

 以前は大学で講義が聞こえない分は教科書や参考書でカバーしようと考えるのが当たり前のように思っていた彼等でしたが、このときは「講義が分からないとだめだ」 「何のために大学に行っているのか分からない」といった声が出て、真剣に"聴覚障害学生にとって学びやすい大学とは何か"について話し合うようになったのです。

 その後、そのうちの1人が「関東ろう学生懇談会」という団体が昔あったことを知り、仲間と一緒にその設立当時の代表者(野沢克哉氏)に会って色々と説明を受けたりしました。

 当時、既に設立されていた近畿地方の近畿聴覚障害学生懇談会の会長からもを助言を受けました。そして情報交換と親睦の場を持つ事の必要性を感じ、大学・短大・専門学校に学ぶ聴覚障害学生に積極的に連絡を取り、同年末に「関東聴覚障害学生交流会」を開催しました。

 けれども「交流会」での情報交換と親睦だけでは様々な問題を具体的に解決することはできませんでした。そこで彼等は、現場教師、ソーシャルワーカー、手話通訳者、ろうあ運動の指導者を招いて講演会、討論会などを行って問題を見つめ直しました。

 又、海外聴覚障害教育研究会やろう教育研究などの研究団体やアメリカのろう教育視察団に参加するなどして、積極的に高等教育に関する学習を進めていきました。そして次第に「学ぶ権利」「聴く権利」の保障について考えるようになったのです。

1976年 こうして「交流会」の活動は広がりを見せましたが、組識的な活動力の面では限界がありました。そこで、目的や会則を定めたより組識的な団体を作ろう、ということで「交流会」は発展的に解消され、昔の「関東ろう学生懇談会」の活動の実績を受け継ぎ、さらに発展させていく組織として、10月3日、「関東聴覚障害学生懇談会」が設立されたのです。
以来、対外的には既に設立されていた「近畿聴覚障害学生懇談会」、後に設立された「東海聴覚障害学生懇談会」と共に、全国的な組識として「全日本聴覚障害学生懇談会連合」を結成し、その数の少なさからお互いの存在にも気付かず孤立しがちな聴覚障害学生の連帯と結束を図り、対内的には附属機関「関東学生情報保障者派遣委員会」を設立して手話通訳者や筆記通訳者を学校に派遣し、実際に講義の内容が分からずに困っている聴覚障害学生を助けて「学ぶ権利」「聴く権利」の自覚を促し、また健聴学生を派遣することによって、彼等と共にこの問題を考える場を提供するなど「関東聴懇」は様々な活動を通して、聴覚障害学生をめぐる多くの問題を見つめ、その解決に向かって歩み続けています。
1997年 「関東学生情報保障者派遣委員会」が独自の団体に発展し、関東聴覚障害学生懇談会とは別の道を歩みましたが、お互いに協力し合いながら聴覚障害学生を取り巻く問題の解決への研究を行なっています。
・5月に「全日本聴覚障害学生懇談会連合」が「全日本ろう学生懇談会」へと改正される。
・会員の承認の有無なしに関東聴懇が「全日本ろう学生懇談会」に吸収され、様々な混乱を引き起こす。
1998年 現在の学生運動の力が全国的レベルに達していないこともあり、活動が停滞しました。しかし、そのことに危機感を持った有志が、
・4月12日に関東聴懇の活動を再開させる。
1999年 8月に「講義保障合宿」を設ける。(その後も年4回の連続的な話し合いをする)
・関東聴懇の大イベントである「関東聴覚障害学生の集い」を初めて主催する。
2000年 ・「聴覚障害学生問題研究会」を設立する。
・「関東聴覚障害学生懇談会25周年記念式典」を主催する。
・「聴覚障害学生のアメリカ研修」(団長:野沢克哉氏)を主催。(17名が参加)
2001年 ・「高等教育機関におけるサポートシステムを考える」(関東学生情報保障者派遣委員会との合同企画)を設け、ディスカッションを行う。
・「大塚土曜クラブ」(大塚ろう学校)の設立や運営に関わる。
・ 地域の学校結びつきを強める。
2002年 ・「聴覚障害学生の中国研修」(団長:野沢克哉氏)主催。(22名が参加)
2003年 ・夏の講義保障合宿や春の関東聴懇の集いで、四国学院大学のメンバーや宮城聴覚障害学生の会などと交流をする。
2004年 外部団体及び企業との連携を強める。
・4年ぶりにアメリカ研修を主催。(15名の学生が参加)



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